もうひとつのJR

JRにはもうひとつの意味があるのを知ってますか?思わず誰かに伝えたくなる、日本がお世話になったJRさんのお話を紹介していきます。

小生意気な子供時代②のび太くん?いや出木杉くんだ!

JRさん、女子校の次はteachers training schoolそしてRoyal collegeへと進学しました。ここは男子校になります。 

 

 この記事だけでも興味深いですが、前の記事を読むとさらに深みが増します!↓

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

 

 

日本でいう小学校、中学校時代、JRさんは学校で勉強することに興味が持てなかったそうです。また、熱心に授業を受けていなかったため、先生(R.S.S.Gunawardena)は、優秀な生徒は彼以外でたくさんいると思っていたそうです。また他の先生(Mr. Paulisz )からはなまけ者と呼ばれていました。また、JRさんのお父さんやおじさんはすごく優秀であったため、いつも比較されていたそうです。お父さんが出世した時には卑屈になったのか、

 

「自分の意思は弱い。」と日記に漏らしてます。

 

また、「先生は自分のことを怠け者と呼ぶが、彼は自分の何を知っているのか。死ぬ前に、この怠け者が、どうなるものか、見せてやる。ここからが俺の大いなる人生の始まりとなるだろう。」などと、大いなる野望も抱いていました。しかし、次の週には、

 

「私の意思は弱い。これを治さねば。」

と、また弱音を吐いていました。そんなJRさんがこの時、何に興味があるかと言えば、クリケットクリケットこそ、自分が夢中になれるものだ!!と思ってたそうです。 とにかくJRさんの興味は勉強よりもゲームで、クリケットの他にもサッカー、ラグビー、ボクシング、テニスと幅広く遊んでいたそうです。先生からは怠け者扱いされ、弱音を吐き、勉強しないで遊んでばっかり。つまり、この時のJRさんは、のび太くん的存在だったんですね。しかも実はJRさん、留年経験もあり、弟のコルベットと同じ学年にもなってます。

 

たがしかし、そこで終わらないのがこのJRさん。面白いことに、留年した翌年には進級と共に飛び級もして、もとの学年に戻りました!とさ。

 

また、JRさんは常に落ち着いている生徒でした。ただ、この落ち着きは取り繕ってるもので、内心は熱い気持ちも持っており、自分に対する先生からの評価には強く不満を持っていました。なぜなら、自分をなまけ者扱いする先生たちは知らなかったんです。実はJRさん、父親の持つ膨大で価値のある書物を、家の書斎で熱心に読んでたんです。内容は英語の古典やインドの民族運動、ギリシャ語やラテン語のテキストなど。それに加え、毎週イギリスから届く新聞Timesの熱心な読者で、世界で起こる出来事を日々、吸収していました。ってどんだけ小難しい本読んでるんだよ!

 

これは私的な想像ですが、授業での話は彼にとっては退屈なだけであって、軽視してる訳ではなかったんですね。だって、すでに親父の書斎で読んで、授業で習うこと以上に知ってるし!みたいな。そりゃやる気も起きませんよ。ただ単に、授業への興味や取組み態度が悪いだけだったんですね。

 

そのため、学校の授業でもソーシャルアクティビティ(多分、単に先生の話を聞いたり机の上でやる勉強以外は好きだったんじゃないかな。)には夢中になり、彼はたびたびこの討論会を観覧したり、参加したりもしました。JRさんは非常に落ち着いているため、けっして興奮することはなく、思案を巡らせ、冷静に討論したそうです。

 

1921年、学校のソーシャルサービスリーグ(社会活動クラブみたいなやつですかね?)が発足され、1922年に最初のアニュアルレポートが学校内で発行されました。JRさんもこの校内誌に寄稿しております。内容は、現在、世界遺産の一つとなっている古代都市、アヌラーダプラ(Anuradhapura) を訪れた時のことだそうです。内容はまだわかりませんが、GWに調査してこようと思います。この時、JRさんは16歳。このあとの三年でJRさんはたくさんの表彰を受けたそうで、1925年には学校のベストスピーカー賞も受賞し、そしてなんと生徒会長にもなっております!また、JRさんを普通の生徒と言っていた教師、R.S.S.さん。実はこの先生とはD.S.セナナヤカさん(セイロンで最初の首相)の第一次内閣で同僚になります。内閣入るくらいの先生だから優秀だと思いますが、それに追いついちゃうJRさん。てか、その後大統領にもなるし、しっかり野望を実現してますね!!


つまり、先生からの評価は初めのび太くんでも、
やることはしっかりやってたし、実は出木杉くんだったんですね!