JRジャヤワルダナさんの物語 〜もうひとつのJR〜

スリランカの元大統領、JRジャヤワルダナ(Junius Richard Jayewardene)さんの幼少期や学生時代、家族の話、仏教へ改宗した話などを知ることができます。現地取材や伝記を翻訳した情報など、日本で最もジャヤワルダナさんの情報を知ることができるサイトを目指しています!

JRジャヤワルダナさんの大学時代

今日はJRジャヤワルダナさんの大学時代の話です。

 

(過去記事)

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

 

 

さて、JRさんの進学の話に戻りますが、JRさんは大学卒業後、法律の専門学校に進学します。

大学での中間試験が、専門学校で弁護士の学生として登録するための必須要件だったので、大学に短期的に進学することが必要条件でした。

1921年に制定されたようで、それがなければ、Proctor(オックスフォードの試験監督官)やSolicitor(事務弁護士)のコースで高い評価を受けるくらい条件を満たす必要がありました。(それがどれくらい難しいのかは分かりかねますが・・・)

 

そのため、JRさんは大学に2年間通いましたが、JRさん含め、弁護士の道を志望する学生のほとんどが学士号を取得するつもりはなく、大学卒業まで通うことはありませんでした。中間試験の成績さえ残ればいいってことですね。

どうやらそういう学生のことを大学の”渡り鳥”という表現をするようです。笑

(本文抜粋→Dick was a bird of passage at University College with no intention of collecting his bachelor's degree.

 

JRさんは、大学と専門学校に通っている間、父親であるウィルフレッドさんのプライベートな秘書役になっていました。

法律の実用的で有益な紹介もあり、給料も他の生徒の平均的な収入よりも遥かにもらっていたようです。

収入が減ったって言っていたけど、ウィルフレッドさんは息子にそんなにあげていたのでしょうか・・・・

 

 

そんな大学生活の2年間は、高校時代の堅い規律から解放されたため、講義が終わった後は自由に過ごすことができました。

テニス、ゴルフ、ラグビーフットボール、ダンス、歌のレッスン(←有名な歌手Deva Surya Sena(誰?w)、Sir James Pierisの息子(誰?w)、古い政治家の1人(なんで?w)、英語の音楽教師、などから教えてもらっていたようです)

などなど、講義や勉強以外の時間もJRさんは忙しい人でした。

JRさんは大学でも多才なスポーツマンだったようですね!

 

プライベートは充実していたようですが、JRさんにとって、大学に多くの記録を残すためには2年は短すぎました。

しかし、JRさんの功績には1つの大きな成果があり、

彼の戦略で労働組合のための新たな一連の規定が作られました。

 

当時、JRさんはS.W.R.D. Bandaranayaike( 後のスリランカの4番目の首相(1956-59):以下バンダラナイケさん)と仲が良く、

バンダラナイケさんが会計士補佐をしていたオックスフォード労働組合の規定の複写をこっそりJRさんに渡しています。

1925年4月、猛暑と湿気の多い季節、ヌワラ・エリヤの大学の事務でJRさんとバンダラナイケさんは密会していたようです。

(※この文書は、1970年代にJ.R.Jayewardeneによって授与され、バンダラナイケ記念国際会議場複合施設の一部を形成するBandaranaike博物館にあります)

【バンダラナイケ記念国際会議場】

英語: Bandaranaike Memorial International Conference Hall略称はB.M.I.C.H

 

これまでは総督(植民地支配の統治者)とイギリスの公務員の後継者によって定められた指導に従っていましたが、オックスフォードに続き、労働組合のために新しいルールが起草されました。

この功績はこれまでになかった行政から労働組合を独立させたことでした。

( 本文抜粋→their general trend was to make the union independent of the administration which it had not been hitherto. )

 

古い規定に取って代わって、これまでの総督という立場は、経営者であり、大学の校長であり、会長という立場に変わりました。

JRさんは組合の議論に頻繁に参加していたし、バンダラナイケさんは人気ゲストスピーカーでした。

 

労働組合を行政から独立させるって、ものすごい功績だと思うんですけど、

それを大学在学中にやってのけるって、しかもこの時代はイギリスからの植民地時代。

学部時代のJRさん凄すぎでしょ(笑)

 

 

 

 

☆☆以下本文と直訳 ※英文は途中まで☆☆

A preliminary step to enrolling at the Law College was a short stay at the University College, just recently established (in 1921) since its intermediate examination was an essential requirement for enrolment as an Advocate student at the Law College. Without that one had 

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 Low Collegeに入学するための予備的なステップは大学の短期滞在でした。その中間試験がLaw Collegeで弁護士の学生として登録するための必須要件だったので、最近(1921年に)制定されました。それがなければ、Proctor(オックスフォードの試験監督官)やSolicitor(事務弁護士)のコースで高い評価を受けるくらい自分の力で条件を満たす必要がありました。

 Dick spent two years at the University College. The College then occupied buildings lately vacated by Royal College at Thurstan Road in Colombo, and to accommodate the growing but still small, student population a large mansion across the road, the Regina Varauva, of 

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 ディック(JRさん)は大学で2年間過ごしました。大学はその後、コロンボのThurstan Roadにある、Royal Collegeが最近明け渡した建物を占有し、また、成長途中であるが小さな学生集団を収容するために、道路沿いの大邸宅で裕福なSoysa家のthe Regia Varauva が買収されました。←よくわからん。。

法律のキャリアを志望するほとんどの学生と同様に、ディックは学士号を取得するつもりはなく、大学の渡り鳥(大学内に長くとどまりません)でした。

 Dick was, for much of the period at University College and through Law College, his father's private secretary, a position that gave him a useful introduction to the practical aspects of the law. It also gave him a quite ample salary, which placed him well above the average undergraduate in the income at his disposal. His two years at University College were free from the rigid discipline of his school days at Royal. He was not a student in 

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 ディックは、大学の多くの期間とLow College、彼の父親のプライベート秘書役を通じて、法律の実用面で有用な紹介をしてもらえました。また、彼にはかなりの給料が与えられていたので、学部生の平均的な収入を上回っていました。彼の大学2年間は、Royalでの高校時代の堅い規律から解放されました。彼は寮に住む学生ではなく、どちらにしてもほとんど毎日講義が終わった後、彼は自分の生活を自由に過ごすことができました。テニス、ゴルフ、ラグビーフットボール、ボールルームのダンス、歌レッスン(有名な歌手Deva Surya Sena、Sir James Pierisの息子、島の古い政治家の1人、英語の音楽教師Ms.Whiteheadたちから)などで、講義や勉強に参加していないとき彼は忙しかったのです。

 Two years were too short a time for him to leave much of a mark on the College or vice-versa. But there was one achievement to his credit, a new set of rules for the Union Society prepared at his initiative, and with the help of S.W.R.D. Bandaranayaike - later Sri Lanka's fourth Prime Minister (1956-59) who had just returned home from Oxford. Dick had met him in 1925 at Nuwara Eliya where their families spent the hot season away from the enervating heat and humidity of Colombo in April as most others of their class did following the pattern set by successive Governors of the Colony and British officialdom. There, in the interludes between tennis matches and house parties, the two young men had discussed the affairs of the University College, and at Dick's request Bandaranaike presented him with a copy of 

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 大学やvice-versaに多くの記録を残すためには、彼にとって2年は短すぎました。しかし、彼の功績には1つの成果があり、彼の戦略で連合協会のための新たな一連のルールが用意されました。S.W.R.D. Bandaranayaike( オックスフォードからちょうど帰国した、後のスリランカの4番目の首相(1956-59))に助けられながら。ディックは1925年に彼(Bandaranayaike)と会いました。彼らの家族たちが、4月のコロンボの猛暑と湿気の多い季節を過ごしたヌワラ・エリヤ(Nuwara Eliya)で。彼らのクラスの大半は、植民地の総督とイギリスの公務員の後継者による決まった指導に従っていました。そこでは、テニスの試合とパーティーの合間に、大学の事務で2人の若い男性が話し合っていました。ディックのリクエストで、バンダラナイケが、彼が会計士補佐をしていた​​オックスフォード連盟のルールのコピーを、彼に渡しました。(※この文書は、1970年代にJ.R.Jayewardeneによって授与された、バンダラナイケ国際会議場複合施設の一部を形成するBandaranaike博物館にあります)オックスフォード連合に続き、大学連合のために新しいルールが起草されました。そして彼らの一般的な傾向は、これまでになかった行政から労働組合を独立させることでした。衰えた古いルールに取って代わって、総督は経営者になり、大学の校長にあり、業務上の会長になりました。JRさんは連合の議論に頻繁に参加していたし、バンダラナイケは人気のゲストスピーカーでした。演説者としての後半の名声は彼を先行していたし、彼の大きな需要は必然的でした。