もうひとつのJR

JRにはもうひとつの意味があるのを知ってますか?思わず誰かに伝えたくなる、日本がお世話になったJRさんのお話を紹介していきます。

JRさんの法学への道 〜JRさんのお父さんは最高裁判所判事〜

f:id:srilanka-jr-japan:20170322045838j:plain

今日はJRさんのお父さんのお話。

  

JRさんとお父さんであるEugene.Wilfred.Jayewardene.(以下ウィルフレッドさん)が深く関わってくるのは、JRさんが高校を卒業してから。

お父さんの紹介は以前にもチラッとしています。

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

 

JRさんが高校を卒業するのは1925年。日本は大正時代ですね。

卒業当時、JRさんは同学年たちのリーダー的存在であり、多才なスポーツマンで、周りの出来の良い生徒たちに負けないとても優秀な生徒でした。

そんなJRさんが今後どのようなキャリアを歩んでいくのか。

後に大統領になる人なんだから、政治・経済を学んでいくのかと思いきや、

父親や父の兄弟、祖父、叔父と同じように弁護士の道を歩んでいきます。

 

JRさんは弁護士の資格を得る為に、イギリス・ロンドン(オックスフォード)にある

" Inns of Court "という名門の学院※に行くことを望んでいました。

※ロンドンにある法廷弁護士任命権を占有する学院→法曹院 - Wikipedia

しかし、JRさんの父親コロンボにある弁護士養成の専門学校に行くことを望んでいたようです。ジャヤワルダナ家の伝統でもありました。

 

JRさんが大学に進学する頃、ウィルフレッドさんは、最高裁判所判事の任命を受け弁護士から裁判官判事へと職が変わりました。

しかし、正式な任命ではなく、臨時のポジション、つまり非常勤的な立場だったようです。仕事が一定ではなく、そのため所得もありませんでした。

19世紀半ばにおいて、裁判官議席のほとんどをイギリス人が占めていたにも関わらず、スリランカ人が選ばれるという非常に名誉ある出世でしたが、経済的にはあまり良くなかったようです。(実際に収入は大幅に減少し、これまでの収入よりもはるかに少なかったようです。)

 

それでもウィルフレッドさんは、十分な収入を得られていた弁護士のキャリアが終わるという代償に見合うだけの、非常に価値のあることだと感じていました。

と同時に、彼の兄弟であるAdrian.St.Valentine.Jayewardene(以下ヴァレンティーヌさん)も同様の任期で任命を受け、最高裁判所判事の役職に就きました。

John Adrian St. Valentine Jayewardene - Wikipedia

兄弟揃って最高裁判所判事に任命されるとか、やっぱりジャヤワルダナ家は優秀な一族!!

 

ウィルフレッドさんの家族はなんの問題もなく生活できていたようですが、それは妻(JRさんのお母さん)の資産があったからでした。しかもウィルフレッドさんの今までの報酬額と同じくらいのものだったようです。

ウィルフレッドさんが今まで稼いでそれを蓄えてきたお金のことを言っているのか、それともお母さんの家系が相当裕福だったのか。そうだとしたら弁護士の給料と同程度ってどんだけの資産があったんですか!・・・

(本文記載文income from the wife's property as to his remunerative practice)

このお母さんも以前チラッと紹介しています

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

  

以前お話したように、JRさんの兄弟は11人という大所帯。

1926年に生まれた子(JRさんが20歳の年なので年齢差20歳の兄弟ということですね)が最後でしたが、それまで家族はどんどん増えていき、その生活するだけの経済力に支障をきたさないように生活していました。

 

11人の子供を養うって、相当な費用が掛かってくると思うけど、それだけ今までウィルフレッドさんが稼いでいたのと、その後もお母さんの資産がかなりあったから成り立っていたわけですね。

そんな状況だったので、ウィルフレッドさんにとってJRさんを、物価・学費共に高いイギリスの大学に通わせるということはとても重大な事だったようです。

子供11人抱えている家族だったので、経済的理由は仕方がないでしょう。

結局、JRさんはコロンボにある大学と専門学校に進学することになります。

 

しかし、JRさんも優秀だけど、お父さんも最高裁判所判事とかめちゃめちゃ優秀な人だったんですね。

親子共、ご先祖様の血をしっかり受け継いでいるみたいです。

そしてお母さんの家系もなんとなくすごいんじゃないかと感じているのは気のせいでしょうか。。。

 

☆☆以下本文と直訳 ※英文は途中まで☆☆

 In 1925 Dick's school days were over; he left Royal after the cricket and rugby seasons of that year. He was by then the head boy at Royal, a versatile sportsman, and a very competent student who was not overshadowed by the brilliant young men of his peer group. There was never any doubt in his own mind about what career he would choose for himself.

Like his father, his father's brothers and his grandfather and great uncles he would be a 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 1925年、ディック(JRさん)の高校生活は終わりました。彼はその年のクリケットラグビーのシーズンの後にRoyal College(高校)を去りました。彼は当時、少年たちのリーダー(head boy)で、多才なスポーツマンであり、同学年の華麗な若い男たちの中に埋もれない非常に優秀な学生でした。彼は、自分がどのようなキャリアを歩むかについて、疑いがありませんでした。父親父親の兄弟、祖父と叔父のように、彼は弁護士になっていたでしょう。もし彼が自由にしてよかったならば、彼は大学教育を受けるため、イギリス(具体的にはオックスフォード)に行き、その後は弁護士として資格を得るためにthe Inns of Court(ロンドンにある法廷弁護士任命権を占有する学院※)へ行っていたでしょう。しかし、彼の父親は、ジャヤワルダナ家の伝統に従ってコロンボにある弁護士養成Low Collegeに行くこと、その後必要ならばイギリスで2〜3年、English bar に入学することを願っていました。

※Inns of Court→(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E6%9B%B9%E9%99%A2

※Low College→(http://www.sllc.ac.lk/)

 

 There was, in any case, not much choice in the matter for E.W. had just taken a vital decision to accept an appointment as a Justice of the Supreme Court. The appointment was not a permanent one, only a renewable 'acting' position. For part of the year there was no work and no income from the post. This meant that his career as a lawyer was over, and though the honour and prestige that elevation to the Supreme Court bench brought were great and much coveted,(※sri Lankans had secured appoinnnent to the supreme court as iudges from the mid-l9th century but that bench had remained largely British. )there was a considerable financial sacrifice involved in it. Unless one was confirmed in the post and 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 いずれにせよ、最高裁判所判事の任命を受け入れるという重要な決定をしたばかりのE.W.(JRさんの父親)にとって、この問題には選択の余地があまりありませんでした。任命は恒久的なものではなく、更新可能な「臨時」のポジションでした。(つまり非常勤的なポジション??)その年の一時期は、仕事がなく所得もありませんでした。これは、彼の弁護士としてのキャリアがより優れたことを意味し、最高裁判所判事への昇格に対する名誉と威信は実に多かったが、それにはかなりの金銭的犠牲が伴いました。(※スリランカ人は19世紀半ばから最高裁判所への同意を得ていたが、その裁判官議席はほとんどイギリス人が占めていた。 )郵便で確認されない限り、そして通例数年後に来る確認書が来ない限り、減給を補うための年金の保障さえもありませんでした。しかしその名誉は素晴らしく、E.W.は、十分な収入のあった弁護士のキャリアの終わりという代償に見合う十分な価値があると考えました。

彼の兄弟であるA.St.V※(1926年12月2日にE.W.と同様の任期で任命を受けた)も彼に続いて議席を得ました。この任命者たちは、この地位の高い2人の兄弟に対して同時に類のない素晴らしい満足感を与えました。2人とも、ただ単に彼らの地位業務を捨てたのではなく、2人とも彼らの政治への関心と同じように、その採算の採れる権利を享受しました。

※John Adrian St.Valentine Jayewardene

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Adrian_St._Valentine_Jayewardene

 

 E.W.'s family had always been substantially well off but this was due as much to the income from the wife's property as to his remunerative practice. But they lived, if not beyond their means, at least up to its limits, because the family was large and kept growing, until there were eleven children in all, the last of whom was born h 1926. Now the father's income 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 E.W.の家族はいつも実質的にうまくいっていたが、これは彼の弁護士報酬と同じくらいの妻の資産からの収入があったためでした。生活するだけの財源を超えないよう、少なくとも限界に達しないよう彼らは生活しました。というのも、1926年に生まれた子供を最後にして全員で11人の子供ができるまで、家族が大きく成長し続けていたからです。現在、父の収入は大幅に減少し(実際にこれまでの収入よりもはるかに少なかった)彼の長男(JRさん)をオックスフォードに通わせることを決める上で、E.W.の心の中では重く重要な論点でした。