JRジャヤワルダナさんの物語 〜もうひとつのJR〜

スリランカの元大統領、JRジャヤワルダナ(Junius Richard Jayewardene)さんの幼少期や学生時代、家族の話、仏教へ改宗した話などを知ることができます。現地取材や伝記を翻訳した情報など、日本で最もジャヤワルダナさんの情報を知ることができるサイトを目指しています!

【世界遺産】ゴール旧市街とその要塞群

 

セイロン島の南西端に位置し海に突き出した半島のあるゴールは、人口10万人弱の都市。城壁に囲まれた旧市街とその外に築かれた新市街とで形作られています。

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 引用元:ゴール旧市街とその要塞群の絶景写真画像

 

ゴール旧市街ってどんな場所??

中東と中国を結ぶ「海のシルクロード」の中継地点として古代から栄えた港町で、大航海時代に入るとポルトガルとオランダによって街が築かれ、中世ヨーロッパ調の雰囲気が色濃く残っています。

それはつまりヨーロッパ各国の支配下に置かれていた過去を意味します。

列強各国の人たちは自分たち以外の「外国人」侵入を防ぐため城壁や要塞を築き、ゴールを強固な城塞都市へと育て上げました。

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引用元:ゴール旧市街とその要塞群の絶景写真画像

 

 

2004年に起きたスマトラ島沖地震によって発生した津波によって甚大な被害を受けたスリランカですが、被害があったのは新市街で旧市街はひとりの死者も出さなかったそうです。

決して明るくはない歴史の遺産である城塞が現在住む人々に平穏をもたらしています。植民地時代の城壁が街を守ったため、以来「奇跡の世界遺産と呼ばれているようです。

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 引用元:ゴール旧市街とその要塞群の絶景写真画像

 

小さな旧市街をぐるりと囲う城砦は、ポルトガルによって造られオランダによって補強されました。低いところで6m、高いところでは20m近くの高さがある頑強なものです。

城壁は屈辱の往時を表すものでありますが、一方でそれを実際に造り上げたのはゴールに住んでいた住民たちでした。

 

祖先が苦労して造ったものをおいそれと壊すことはできないという思いのもと、現在に至るまで残されてきました。

そして先述した地震による津波は砦によりせき止められ、津波からこの街が救われたのは、そんな住民たちと祖先の思いの積み重ねが奇跡を呼んだからかもしれません。

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引用元:ゴール旧市街とその要塞群の絶景写真画像

 

Informationインフォメーション

[アクセス]コロンボから車で約2時間(高速道路利用)。

[入場料]無料

[Google Map]



参考文献

世界の資産家はなぜスリランカに投資するのか

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【世界遺産】ダンブッラの黄金寺院

 

スリランカのほぼ中央に位置するダンブッラ。ここには、5つ目に紹介する世界遺産仏教石窟寺院」があります。

ランギリ(黄金色に輝くという意味)という名を持つ岩山の上につくられた寺院で、金箔で覆われた仏像が無数におさめられているため、正式には『ダンブッラの黄金寺院』という名がついています。

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引用元:いい旅スリランカ

 

 

入り口に到着すると、まず大きな金色の大仏が目に入りますが、これは黄金寺院ではなく博物館です。ダンブッラの石窟寺院は、黄金の大仏から奥へ進んで、岩山を登った先にあります。

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 引用元:マイルで行く世界遺産

 

 

黄金寺院は5つの石窟から成っており、いずれも天井や壁には所狭しと釈迦像が描かれています。

第1窟はデーヴァ・ラージャ・ヴィハーラ(神々の王の寺院)と呼ばれ、もっとも古い石窟であり寺院最大の14mもある涅槃像が安置されています。

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 引用元:トラベルjp<たびねす>

 

 

5つの中でもっとも広い第2窟は、マハー・ラージャ・ヴィハーラ(偉大なる王の寺院)。赤や黄色などさまざまな色で描かれた壁画と56体の仏像が並びます。

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 引用元:http://photozou.jp/photo/show/

 

 

またこの窟には、岩山のほぼてっぺんであるにもかかわらず天井から水滴が落ちていて、聖なる水として大切にされ重要な儀式の際に使われているそうです。

ダンブッラとは「水が湧き出る岩」の意味で、この地の由来であるとされているようです。

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 引用元:いい旅スリランカ

 

 

第3窟のマハー・アルト・ヴィハーラ(偉大なる新しき寺院)が造られたのは18世紀で、とにかくたくさんの仏像や壁画があり、近年も足されているようで、中には真新しいものもあります。

 

第4窟と第5窟は、比較的規模が小さく新しい石窟になています。ここにも多くの仏像がおさめられていますが、一部立ち入り禁止になっていたり写真撮影が禁止されていたりします。

 

 

Informationインフォメーション

[アクセス]コロンボから車で約4.5時間。キャンディから約3時間。

[料金]1,500ルピー

[Google Map]



参考文献

聖なる水が滴り落ちる世界遺産、ダンブッラの石窟寺院 | いい旅スリランカ

世界の資産家はなぜスリランカに投資するのか

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補足記事:JRさんのご先祖様〜Part 1 Don Adrian(エイドリアン)編〜

エイドリアンさんの仕事の話がでてきたので、ついでにその職務や地位についてちょっとお話ししたいと思います。元記事はこちら。

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

 どういう経緯でスパイ活動をしていたのかは不明ですが、エイドリアンさんはオランダ支配時からMudaliyarという地位についていました。首領職のことであり、語源のMudaliはシンハラ人の間で一個またはそれ以上の村落の首領を意味していました。Mudaliyarという言葉はポルトガルに支配されていた時代には「土民兵隊長」、オランダと領有初期のイギリスからは「司法権を持つ行政長官」として理解されていたそうです。ころころと定義が変わってややこしい。


インド同様スリランカにもカースト制度はありましたが、Mudaliyarは必ずしもカースト最上位のGoyigama(シンハラ社会での呼称。タミル社会ではVellala。この時は農民のこと)出身者ではなかったようです。卑賎の出身から通訳として取り立てられ、有力者の娘と結婚した人もいたそう。スリランカでのカーストは結婚の際に強く意識されるものらしいので、カーストを飛び越えたような存在だったのでしょうか。

ややこしいですが、とりあえずMudaliyarであるエイドリアンさんは偉い人であったたみたいです!

 

参考文献:イギリスのシンハラ人土民首領制度に対する政策, (1977) 高畠(北海道大学文学部)
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33412/1/25(2)_PL1-55.pdf

JRさんのご先祖様〜Part 1 Don Adrian(エイドリアン)編〜

今日はJRさんのご先祖様のお話です。

 

JRさんのご先祖が初めて歴史に登場するのは18世紀頃。セイロンでJRさんの父方の高祖父にあたるドン・エイドリアン(以下エイドリアンさん)が歴史に名を残します。高祖父というとちょっとイメージが湧きにくいと思うので、家系図を載せておきます。

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参照元URL:https://www.wikitree.com/genealogy/Jayewardene-Family-Tree-4

 

右上の赤線で囲われてる人が今回お話しするエイドリアンさんです。もとはインドの商人の地区に祖先を持つ家系だそうで、彼が歴史に登場する18世紀末にはすでにセイロンに帰化していました。

 

さて、本題に入りますがこの人はなにをして歴史に名を残したのでしょうか。

 

一言でいうとオランダ・イギリスによるスリランカ支配の協力者として、です。JRさんはナショナリストで西欧列強の支配には断固反対のようなイメージがあるため、高祖父のエイドリアンさんもそうなのかなと思いきや、実はそうではありませんでした。西欧列強による支配において土着の人の協力は大変重要であり、エイドリアンさんもその役割を担う一人でした。伝記にはこうあります。

”It would seem that the task of the colonizer (植民地開拓者) was eased (楽にする)immeasurably( 計り知れないほど) by the ready availability of such indigenous (土着の) collaborators(協力者)

.....省略.....

Every elite family which can trace(遡る) its history beyond the mid-nineteenth century would have several ancestors who were collaborators of the intruding (〈意見などを〉押しつけるような) western powers(西欧列強) and indeed took pride in(誇りに思う) their role.Don Adrian Jayewardene was a notable(顕著な) example of this category of person.”

(引用:J.R. Jayewardene of Sri Lanka a Political Biography: 1906-1956 part 1 )

(訳:植民地開拓者の仕事はそのようなすでに利用可能な土着の協力者によって計り知れないほど楽になったようだ。19世紀半ばを超えて歴史を遡ることのできるすべてのエリート家庭は押しつけがましい西洋列強の協力者であり、そのことについて誇りを持っていた祖先を幾人か有するだろう。ドン・エイドリアンはこれに分類される人物の顕著な例であった。)

 

軽く皮肉られてる気もします(笑)が、JRさんのルーツや高祖父エイドリアンさんの人物像が大まかに見える一節だと思います。

 

さて、そんなエイドリアンさんですが、具体的にどんなことをしていたのでしょうか。エイドリアンさんの生き様を以下で見ていきましょう。

 

まずはエイドリアンさんが活躍した時代からおさらい。

 

エイドリアンさんが活躍した18世紀末~19世紀半ばは西欧各国が植民地を取り合ってドンパチやっていた頃。日本では徳川幕府による政治が真っ盛りくらいでしょうか。長崎の出島にオランダ商館ができたりオランダに関する蘭学杉田玄白の解体新書がでてくるのが18世紀ごろであり、また19世紀の初頭にはイギリス・アメリカ・ロシアが日本と交易を開始するために江戸幕府にさまざまな要求をしています。これら日本史からも西欧列強の世界進出が見て取れます。インド洋の海上交易に重要な役割を果たし、シナモンの産地であったセイロンはこれら西欧列強の影響を強く受けていました。16世紀から17世紀半ばの150年間はポルトガル、1657年からはオランダ、1796年からはイギリスによって支配されます。

 

エイドリアンさんはオランダからイギリスに支配が転換される時期(1796年)くらいに、intelligence agent、つまりオランダ側スパイとして活動していました。活動のさなか、残念なことに彼はイギリスにつかまってしまいます。この時代、捕まったスパイの命運はお察しでありまして、エイドリアンさんも同様のはずでした。しかしイギリス側がエイドリアンさんの口達者さ、頭の回転のはやさ、そして頑固なまでにオランダ側の情報を漏らさなかった点を評価してこれは有能だということでエイドリアンさんを殺さずに置いておいたそうです。さすがはJRさんの祖先。

 

エイドリアンさんはMudaliyar(=首領職。補足記事あり!)としてイギリスに仕え、最終的には政府機関紙-the govenment Gazzete-に死亡記事と賞賛の言葉が書かれるほどになりました。さすが、JRさんのご先祖さまですね。

 

以上、JRさんのご先祖様〜Part 1 Don Adrian(エイドリアン)編〜でした。

補足記事はこちら。

srilanka-jr-japan.hatenablog.com

 

【世界遺産】キャンディ仏歯寺

  

次に紹介するのは、シンハラ王朝最後の都が置かれた町で、街全体が世界遺産として登録されている『キャンディ』です。

 

セイロン島の中心部、標高500mほどの盆地に位置し、現在も人口12万5000人ほどの主要都市のひとつとして栄えています。

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引用元:いい旅スリランカ

 

 

仏歯寺とは??

ここキャンディには、ブッダの犬歯を祀る仏歯寺があり、多くの仏教徒たちが祈りを捧げるためにやってきます。

紀元前4世紀にインドで火葬されたブッダの犬歯は、スリランカにもたらされて以来、王権の象徴として遷都とともに移動を繰り返してきました。

現在まで残るキャンディの仏歯寺が建てられたのは1603年のことです。

 

仏歯がおさめられた豪華な仏舎利塔が置かれている部屋は、一日に3回

「プージャ」と呼ばれる礼拝の時間にのみ公開され(仏歯そのものは厳重に守られており直に見ることはできない)熱心に祈りを捧げる人々や観光客で寺院はつねに賑わっています。

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ブッダの歯を祀る、キャンディの仏歯寺   引用元:the.trip-u.com

 

 

 

2011年にはアジアの仏教を国際別に展示する「国際仏教博物館」が設立され、もちろん日本の展示コーナーもあります。

honganjifoundation.org

 

 

また、1年に1度、毎年夏に行われる「エサラ・ペラヘラ祭」では、この仏歯を背に乗せた象をはじめとして、約100頭の象が隊列を組んで行進し、人々は仏歯を祀る意を込めて熱狂的な伝統舞踊のキャンディアン・ダンスを舞うことで有名になっています。

象は電飾を飾りつけた布をまとい、仏歯寺もライトアップがほどこされ、さらにダンサーの持つたいまつが夜の街を明るく照らし、その壮麗さは仏教徒のみならず世界中から集まる観光客をも魅了する姿は一度は目にしたい光景でしょう。

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引用元:いい旅スリランカ 

 

 

Informationインフォメーション

[アクセス]コロンボから車で約3時間。

[入場料]仏歯寺:1,000ルピー

[Google Map]

 

 

 参考文献

【スリランカ仏教の原点!】仏陀の歯をまつる仏歯寺と、世界遺産キャンディの見どころ | いい旅スリランカ

世界の資産家はなぜスリランカに投資するのか

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