【世界遺産】聖地アヌラーダプラ
引用元:スリランカ世界遺産地図 - 旅行のとも、ZenTech
前回の記事で紹介したように、スリランカには、北海道の約8割という国土に6つの文化遺産と2つの自然遺産の計8つの世界遺産が点在し、観光資源に大変恵まれた国ということが分かると思います。
今回はその内の一つ『アヌラーダプラ』について紹介していきたいと思います。
聖地アヌラーダプラ ってどんな場所??
聖地アヌラーダプラは、紀元前4世紀から約1400年間という長きにわたり、シンハラ王朝の首都が置かれていたスリランカ最古の都で、この地にインドから伝わった仏教が各地に広まりました。
特筆すべきは、このブログのテーマであるJRさんとゆかりのある地ということです!
J.R.ジャヤワルダナ氏は16際の時にこの地を訪れ、ここでエッセイを書き、彼の通っていた大学のカレッジ雑誌に論文として寄稿していたそうです。
一般的に観光する人にとってはただのイチ世界遺産の地であるかもしれませんが、とても重要な場所ということでしょう。
また、「聖地」と呼ばれるのには、スリー・マハー菩提樹の存在があるからでしょう。
引用元:カフェを訪ねて三万里
インドのブッダガヤからもたらされた、ブッダがその根元で悟りを開いたとされる菩提樹の分け木がこの地にあります。
インドの菩提樹は焼失したため仏陀が覚りを開いた瞬間を唯一記憶している聖なる木とも言われており、数千年の時を超えた今も信徒たちがこの場所で祈りを捧げています。
また、アヌラーダプラは、遺跡の残る聖域地区、旧市街、新市街の3つの地区に分けることができ、仏教都市として発展したこの地には、”ダーガバ”と呼ばれる巨大な仏塔が聖域地区に3つ存在します。
シンボルとも言える「ルワンウェリ・サーヤ大塔」
引用元:takaji-ochi.com
紀元前2世紀、タミル人の侵略を阻止したことで現在も英雄王と称えられるドゥッタガーマ王により建設が開始されました。王自身は大塔の完成を見ることなく没したが、事業は息子によって引き継がれて完成しました。
もっとも古い仏塔は「ジェータワナ・ラーマヤ」
引用元:ジェータワナ・ラーマヤ | スリランカ 旅行まるわかりガイド
紀元前3世紀にアヌラーダプラを治めた王のひとり、マハーセーナ王が建てたと伝えられています。7300万個のレンガを使って建てられ、建設当時は122mと、スリランカでもっとも高い仏塔でした。
現在残る仏塔として最も大きい「アバヤギリ大塔」
引用元:海外旅行記 女性ひとり旅のブログ
紀元前1世紀に建てられ、建設当時は110mで現在でも75mを誇っています。今は断絶してしまったスリランカ大乗仏教の総本山で、多くの信仰を集めていました。
そして、寝釈迦像が存在する「イスルムニヤ精舎」
引用元:いい旅スリランカ
紀元前3世紀、スリランカに仏教が伝わった直後スリランカで初めて仏教を受容したデーバアナンピヤ・ティッサ王が、アヌラーダプラを仏都とすべく、その第一歩として建てられました。
南インドのチョーラ王朝からやってきた人々に追われて、ボロンナルワへ遷都(せんと)して以降は廃墟と化し、19世紀イギリス人によって発見されるまで、アヌラーダプラの存在は忘れ去られていたそうです。
ユネスコ世界文化遺産に登録されたのは1982年のことでした。
Informationインフォメーション
[アクセス]コロンボから車で約4.5時間。
[入場料]30ドル
[Google Map]
参考文献
118 スリランカの仏教遺跡巡り(1)アヌラーダプラ(aイスルムニヤ精舎) - 石仏散歩
観光地としてのスリランカ
引用元:DTAC スリランカ観光情報局
一度でもスリランカを訪れた人は、この国に観光立国としての素地が揃っていることを体感しているのではないでしょうか。
スリランカの観光的魅力を紹介する上で、まず特筆すべき点は、
北海道の8割ほどの国土に8つの世界遺産が存在していることでしょう。
【聖地アヌラーダプラ】
【シギリヤロック】
【古代都市ポロンナルワ】
【聖地キャンディ仏歯寺】
【ダンブッラの黄金寺院】
ヨーロッパ統治時代の痕跡を残す
【ゴール旧市街とその要塞群】
原子の自然と動物たちのワイルドな生態を垣間見られる
【シンハラジャ森林保護区】
【スリランカの中央高地】
引用元:スリランカにある8つの世界遺産をご紹介します♪ | いい旅スリランカ
これらの世界遺産が物語る歴史は極めて興味深く、またこれらの遺跡を語る上で、この国に存在する独特な宗教文化についての説明も欠かせないでしょう。
この国が辿ってきた歴史、築いてきた文化を知る上で欠かせないこれら世界遺産の魅力を今後の記事で分けて紹介していきます。
また、内戦が終わった今、スリランカ政府は観光産業に力を入れているようで、
各種インフラが徐々に整い、リゾート地としても注目されるようになっています。
海に囲まれた島国ということでダイビングなどのマリンスポーツが盛んで、船で海へ出ればホエールウォッチングもでき、本格的なアーユルヴェーダ体験ができる場所も増えています。
首都コロンボの街中や高原にはコロニアル調の洋館を利用したホテルがたくさんあり、海辺には大規模なリゾートホテルが立ち並んでいます。
スリランカが生んだ熱帯建築のパイオニア”ジェフリー・バワ”の作品であるホテルもぜひスリランカを訪れた際は泊まってみたい場所です。
海に沈む夕日の雄大さをホテルから眺めるのもよし、ビーチでのんびり過ごすのもよし。
同じ島国ということで豊富にとれる海産物を使ったスリランカ料理は日本人の味覚とも相性がいいでしょう。
美しい景色と美味しい食事があり、心身を落ち着けてリフレッシュさせることも、アクティブに遊ぶこともできる場所。それが観光地としてのスリランカの魅力です!
次回からの記事では、これら観光地にもう少し詳しく迫ってみたいと思います。
今後の記事↓↓↓
・聖地アヌラーダプラ
・古都シギリヤ
・古代都市ポロンナルワ
・キャンディ仏歯寺
・ダンブッラの黄金寺院
・ゴール旧市街とその要塞群
・シンハラジャ森林保護区
・スリランカの中央高地
乞うご期待!!!
参考文献
テーマ で旅するスリランカ 世界遺産 | DTACスリランカ観光情報局
そもそもスリランカってどんな国??
JRさんの幼少期を少しずつ紹介してきましたが、少しはJRさんという人物について興味が湧いてきた方が増えてきたのでは???
そんな期待を胸にどんどん記事をあげていきますが、JRさんの幼少期のお話はちょっとの間お預け。
このブログでは、JRさんを知ってもらう為、様々な切り口で記事を書いていこうと思いますが、
今日の記事は、JRさんの生まれ故郷である『スリランカ』
という国について深く掘り下げていこうと思います。
そもそもスリランカって知ってる???
ところで、そもそも皆さんは『スリランカ』という国をご存知でしょうか。
『スリランカ民主社会主義共和国』、通称スリランカ。
日本の北海道の8割くらいの面積に、人口約2000万人が暮らす島国。
公用語はシンハラ語、タミル語、そして英語を話し、国民の7割が仏教徒という仏教大国です。
上記の世界地図を見てもらうとだいたいの位置は分かったかと思います。
多くの方が名前くらいは聞いたことがあるとは思いますが、 「光り輝く島」という意味の現在の国名”スリランカ”という国は、かつては『セイロン』という名で呼ばれていました。
多くの方にとって親しみのある「セイロンティー」は実はここから来ています。
そう考えると身近な存在として親しみを覚えるのではないでしょうか。
しかし日本人にとって、実際のスリランカがどのような国なのか、どのような歴史を辿ってきたのか、いかに魅力ある国であるかを知る人は決して多くないはずです。
その理由の一つは、最近までこの国が30年近くもの長きにわたり内戦状態にあったため、観光はもちろん、人的、経済、物流などなど、各種の交流が難しい状況になっていたからなんです。
しかし、長期に及んだ内戦は2009年に完全終結。それまでの停滞を一気に晴らすかのように、その後のスリランカの発展にはまさに目を見張らされています。
2010年には、米紙ニューヨーク・タイムズが”世界で最も行ってみたい観光地の、なんと1位に選ばれるほどの快挙。
インド洋の真珠と言われている島国スリランカですが、 次回の記事では、「観光地」としてのスリランカの魅力について、そしてJ.R.ジャヤワルダナさんとどのような関わりがあるのか、その点も交えながら紹介していきたいと思います。
JRジャヤワルダナさんの素敵な家庭のお話
今日の記事は、幼少期のJRジャヤワルダナさんちのお話。
JRジャヤワルダナさんの子供時代の記事はこちら↓
srilanka-jr-japan.hatenablog.com
そもそもJRさんって誰って方はこちら↓
srilanka-jr-japan.hatenablog.com
JRさんのお父さん(E.W. Jayewardene)もJRさんと同じRoyal Cllege Colombo出身です。法律家でセイロンの最高裁判事にまでなられ、Wikipediaにまで載るすこぶる優秀な方です。クリスチャンで、子供達にもそうなって欲しいと強く望んでいたため、常に英語で話しかけ、家政婦達との会話も英語で話すように子供達に教育してました。毎週、日曜日は近くの教会(St.Michael's Polwatteか Christ Church at Galle Face)にJRさんと通っていたそうです。また、当時では珍しく、英国の家庭教師(Miss Munro)を子供達につけ、英会話のリズムや韻から、歌やピアノも習わせました。ドン・キホーテや不思議の国のアリスなども、JRさんはこの家庭教師から読み教えてもらっていたそうです。
一方、JRさんのお母さん(Agnes Jayewardene )はその家族(Wijewardene家)揃って仏教徒でした。伝統的な習慣を守り、シンハラ語を話します。修行中の僧に食べ物を寄付する活動も定期的に行う熱心な仏教徒でした。ちなみにお母さん、英語も喋れます。お母さんは料理もでき、台所を取り仕切っていました。いつも子供達や夫のために、食卓には溢れんばかりのご飯を準備していたため、夫は丸く太り、実際の身長よりも低く見えたそうな。
JRさんのお父さん→Eugene Wilfred Jayewardene - Wikipedia
お母さんは家で常に動き回っており、最初の孫と住むようになっても変わらない生活を続けたそうです。しかも晩年は車椅子に乗っていたにも関わらず、昔ながらの生活を続けました。JRさんのお母さんは生活スタイルや家庭を大切に思う人でした。
クリスチャンで英語を話すお父さんに、仏教徒でシンハラ語を話すお母さん。素敵なことに、言葉も宗教も違うにも関わらず、お互いを尊重しあってました。英語での会話を強く望むお父さんをよそに、お母さんは夫や子供達、家政婦とも、シンハラ語で話しかけていたそうです。夕食時、食卓を囲みながら英語で話しかけるお父さんに、シンハラ語で返すお母さん。そんな家庭でJRさんは育ちました。
これって、素敵なことだと思いませんか?
JRジャヤワルダナさんの小中高時代。のび太くん?いや出木杉くんだ!
この記事は、Chapter 2 JR ジャヤワルダナさんの子供時代(0〜19歳まで、1906-1925)の小中高校生のときのお話です。スリランカの大統領にまでなったジャヤワルダナさん(JRさん)は、ただの優秀な人ではありませんでした!
小学校に行く前や幼少期の性格などのお話は↓こちらの記事
srilanka-jr-japan.hatenablog.com
ジャヤワルダナさんの授業態度
JRさん、女子校の次はティーチャーズトレーニングスクール(teachers training school)そしてロイヤルカレッジ(Royal college)へと進学しました。ここは男子校になります。日本でいう小学校、中学校時代、JRさんは学校で勉強することに興味が持てなかったそうです。また、熱心に授業を受けていなかったため、先生(R.S.S.Gunawardena)は、優秀な生徒は彼以外でたくさんいると思っていたそうです。また他の先生(Mr. Paulisz )からはなまけ者と呼ばれていました。また、JRさんのお父さんやおじさんはすごく優秀であったため、いつも比較されていたそうです。
ジャヤワルダナさんの大いなる野望
お父さんが出世した時には卑屈になったのか、
「自分の意思は弱い。」と日記に漏らしてます。
また、「先生は自分のことを怠け者と呼ぶが、彼は自分の何を知っているのか。死ぬ前に、この怠け者が、どうなるものか、見せてやる。ここからが俺の大いなる人生の始まりとなるだろう。」などと、大いなる野望も抱いていました。しかし、次の週には、
「私の意思は弱い。これを治さねば。」
と、また弱音を吐いていました。
大統領は留年もしました
そんなJRさんがこの時、何に興味があるかと言えば、クリケット。クリケットこそ、自分が夢中になれるものだ!!と思ってたそうです。 とにかくJRさんの興味は勉強よりもゲームで、クリケットの他にもサッカー、ラグビー、ボクシング、テニスと幅広く遊んでいたそうです。先生からは怠け者扱いされ、弱音を吐き、勉強しないで遊んでばっかり。つまり、この時のJRさんは、のび太くん的存在だったんですね。しかも実はJRさん、留年経験もあり、弟のコルベットと同じ学年にもなってます。
たがしかし、そこで終わらないのがこのJRさん。面白いことに、留年した翌年には進級と共に飛び級もして、もとの学年に戻りました!とさ。
また、JRさんは常に落ち着いている生徒でした。ただ、この落ち着きは取り繕ってるもので、内心は熱い気持ちも持っており、自分に対する先生からの評価には強く不満を持っていました。
ジャヤワルダナさんは家にある本から学んでいる
なぜなら、自分をなまけ者扱いする先生たちは知らなかったんです。実はJRさん、父親の持つ膨大で価値のある書物を、家の書斎で熱心に読んでたんです。内容は英語の古典やインドの民族運動、ギリシャ語やラテン語のテキストなど。それに加え、毎週イギリスから届く新聞Timesの熱心な読者で、世界で起こる出来事を日々、吸収していました。(ってどんだけ小難しい本読んでるんだよ!)
これは私的な想像ですが、授業での話は彼にとっては退屈なだけであって、軽視してる訳ではなかったんですね。だって、すでに親父の書斎で読んで、授業で習うこと以上に知ってるし!みたいな。そりゃやる気も起きませんよ。ただ単に、授業への興味や取組み態度が悪いだけだったんですね。
そのため、学校の授業でもソーシャルアクティビティ(多分、単に先生の話を聞いたり机の上でやる勉強以外は好きだったんじゃないかな。)には夢中になり、彼はたびたびこの討論会を観覧したり、参加したりもしました。JRさんは非常に落ち着いているため、けっして興奮することはなく、思案を巡らせ、冷静に討論したそうです。
生徒会長になったジャヤワルダナさん
1921年、学校のソーシャルサービスリーグ(社会活動クラブみたいなやつ)が発足され、1922年に最初のアニュアルレポートが学校内で発行されました。JRさんもこの校内誌に寄稿しております。内容は、現在、世界遺産の一つとなっている古代都市、アヌラーダプラ(Anuradhapura) を訪れた時のことだそうです。
アヌラーダプラに関する記事は↓こちら
srilanka-jr-japan.hatenablog.com
内容はまだわかりませんが、GWに調査してこようと思います。(2017年7月30日追記:エッセイ読みました!今度内容を公開します!)
この時、JRさんは16歳。このあとの三年でJRさんはたくさんの表彰を受けたそうで、1925年には学校のベストスピーカー賞も受賞し、そしてなんと生徒会長にもなっております!また、JRさんを普通の生徒と言っていた教師、R.S.S.さん。実はこの先生とはD.S.セナナヤカさん(セイロンで最初の首相)の第一次内閣で同僚になります。内閣入るくらいの先生だから優秀だと思いますが、それに追いついちゃうJRさん。てか、その後大統領にもなるし、しっかり野望を実現してますね!!
つまり、先生からの評価は初めのび太くんでも、やることはしっかりやってたし、実は出木杉くんだったんですね!
ただの優秀な人ではない、JRさん。幼少期の他の話は↓こちらの記事から。